柳美里の魅力  孤独と死が意味するもの

 

                       美学美術史学科  田巻 智子

   はじめに

 柳美里(ユウミリ)は、1968年在日韓国人の長女として、横浜に生まれる。横浜共立学園を高校1年の時に退学、その後、劇団〈東京キッドブラザース〉で女優として活動する傍ら、自らもシナリオを書き、劇団「青春五月党」を結成、「水の中の友へ」の脚本・演出を手掛け、93年『魚の祭り』(角川文庫)では岸田國士戯曲賞を最年少で受賞する。幼い頃からのいじめ、家庭内暴力、両親の離婚による家族の崩壊、そして自殺未遂。激烈な幼少期、思春期を送った彼女の作品の多くは「家族」・「死」をテーマにしたものである。そのためか、「暗い話を書き続ける作家」という印象が世間に根付いている。

 しかし、平成8年に著書『フルハウス』(文藝春秋)で第18回野間文芸新人賞、第24回泉鏡花文学賞を受賞、翌年、『家族シネマ』(講談社)で第116回芥川賞を受賞されるなど、その才能は高く評価され、絶大な人気を誇る。

 できれば避けてしまいたいような、近寄りがたい彼女の世界に、なぜ現代の人々が自ら飛び込み、魅了されてしまうのか、その理由を探っていきたいと思う。

 

 

 

1.柳美里をとりまく環境について

 初めに述べたように、柳美里の作品は「家族」・「死」をテーマにしたものがほとんどである。彼女がどうしてそこまで「家族」そして、「死」にこだわり続けるのか、その原点とも言える彼女自身の家族について書かれた著書『水辺のゆりかご』(角川書店)を手がかりに、柳美里の生い立ち、または彼女をとりまいていた環境について触れていきたいと思う。

 美里という名前を与えたのは母方のハンベ(韓国語で祖父)の梁任得(ヤンイントク)である。ミリ、韓国でも日本でも同じ読みの名前を考えたそうである。柳は韓国読みでユウ、日本語でヤナギとも読めるので、両親もハンベも、彼女が今後日本社会で生きてゆくことを配慮したのであろうか。在日韓国人は本名で生きていく人、国籍を保持しながら日本名で通す人、帰化して日本国籍を取得する人の3つに分けられる。現在、1年に約5千人の在日韓国人たちが帰化しているそうだが、いずれにしてもアイデンティティの問題を抱え込まないわけにはいかないであろう。しかし、韓国籍のまま日本名のように通用する、柳美里という名前を付けられたことが、在日韓国人としての困難な問題にさらされるのを防いだといえなくもないであろう。

 実際、彼女は著書のなかで、「もし私が金○○というような明らかに韓国人とわかる名前だったら、私の意識の流れは今の流れとは大きく違うものになっていただろう。」と告白している。アカ(共産主義者)であったハンベは韓国の家の隠し扉に仲間たちと身を潜めていたが、危険を察知し、家族を捨てて、単身日本へ逃げた。しかし2年過ぎても何の音沙汰もないため、ハンメ(韓国語で祖母)は美里の母親ら4人の子供を連れて、ハンベを探すために日本に密入国した。これが、後に生まれる柳美里が在日韓国人として生きてゆくことになる始まりになるというわけである。

 しかし1年近く捜して見つかったハンベには、日本人の妻とその間にできた男の子がいた。それを知るとハンメは4人の子供を置いて失踪したその頃ハンベは現在の芝浦あたりで、外国人相手の、2階で売春をしているようないかがわしいバーを経営しておりそこで儲けた金を持って茨城県の土浦で<旭御殿>というパチンコ屋を始めた。美里の母親はほかの兄弟達と同様に、子供というよりも〈旭御殿〉の従業員であった。無給で使えるのは自分の子供ぐらいしかいないため、学校から帰ると子供達はホールの管理や景品交換などの手伝いを強いられた。

 美里の母親は、二十歳の頃に同級生に求婚されたが、日本人との結婚は許さないとハンベに反対され、知人の紹介で父、柳原孝(ユウウォンヒョ)と見合いをし、結婚した。

 2人の間に美里が生まれると、その2カ月後にハンベは信頼していた人に騙されて店を安価で売り、韓国に帰っていった。美里の父親は、ハンベの店を手伝っていたため失業してしまったが、パチンコ屋を開店したいので協力してくれという知人の言葉に飛びつき、家族を連れて横浜に引っ越した。

 1歳になる誕生日の前に、美里はコモ(韓国語で父方の叔母)の家に預けられた。母親が弟を身ごもり、ひどい悪阻のために面倒を見ることができなかったからである。結局、3歳になるまで美里はコモの家に預けられた。生まれてから3歳までが一番大切な時期であり、その間に母親との関係が希薄な子供は精神的な障害を持つケースが多いという話を聞いたことがあるのだが、彼女もその例外ではなく、一番重要なその年月、母親と別居していたことが、後の対人関係に大きな影を落とすことになったと言えるであろう。

 その後、彼女には2人の弟と、1人の妹ができた。兄弟たちはハンベによって、春樹、愛里、冬逢と命名された。美里と同じように日本でも通じる名である。

  美里の母親は4人兄弟であり、2人の兄と1人の妹がいる。長男である梁栄男〈八王子のサンチュン(韓国語で伯父)〉は長距離トラックの運転手であったが、その会社の社長の娘婿になり、帰化した。庭の池には数十万円もする錦鯉が泳いでいて、立派な日本庭園のある大きな家に住んでいる。もう一人の兄である栄敏〈馬のサンチュン〉は陽気な人で、韓国に住んでいたが、学生運動に熱中し、政治犯として5年近く刑務所に入れられ、出獄したあとは韓国に絶望し、日本で生きることを決意した。妹である栄子〈イモ(韓国語で叔母)〉はパリで美容師の勉強をしていたが、日本に帰ってしばらくすると新宿の伊勢丹の美容室に就職した。その後、韓国に渡って結婚したものの、日本で育った彼女と韓国の田舎で育った夫とでは、何一つ話が合わず2人の子供を連れて日本へ再び戻ってきた。それからイモは、美容師には戻らず、キャバレー勤めをはじめた。

 美里の母親はその頃、生活費を稼ぐために家で漬けたキムチを横浜橋の袂で売っていたが、「貯金が100万になった」というイモの一言に心を動かされ、キャバレーのホステスになった。そのため、深夜父親と母親が帰ってくるまでの間は兄弟4人で過ごした。好き放題の生活も、楽しかったのは最初の1週間だけで、次第に耐え難くなった。額の生え際の髪を引き抜く癖も左側の小鼻がぴくぴくひきつることもこの頃から始まり、今でも不安を感じると同じ症状が出るという。

 一方、父方の叔母であるコモは、そのころ美里たちの家の2階に堀江という日本人の男と住むようになった。堀江には前妻が置いていった小学6年生の男の子がいた。

 母親は、ホステスをしていて知り合った男とつきあうようになり、父親との不和から家を出ていってしまった。彼女の作品にもこれらのことがノンフィクションで度々書かれているのだが、とにかく壮絶な家庭環境が彼女をとりまいていた。

 それでは、彼女が自分自身の家族を描いた作品、又は「家族」をテーマにした作品をとりあげ、柳美里のこれまでの壮絶な人生をみながら柳美里という女性を分析してみようと思う。

 

 

 

 

2.「家族」をテーマにした作品の数々とその意味するもの

 前の章で参考にした著書『水辺のゆりかご』(角川書店)は柳美里自身のこと、そして家族のことをを描いたノンフィクション作品である。日本に生まれてからの、いじめに遭い続けた幼少期から、高校を中退し劇団<東京キッドブラザース>に入団するまでの経緯が記されている。激烈な幼少期を送ったといわれる彼女であるが、そのエピソードをいくつか取り上げ、彼女がどのような人生を送ってきたのかを見ていこう。

 1年遅れて幼稚園の年長組に入ると美里はすぐにまわりの子供たちからいじめられた。いじめられた理由は今になってみてもわからないと言う。しかしいじめられる何かを持っていたことは確かであろう。髪型や服装がまわりの子供たちと違っていたからだろうか、と本人は考えているが、彼女の友人の1人は「彼女が、自分は特別だという意識をどこかで持っていて、そのことを他の子供たちは敏感に察知したのだ」と指摘している。集団への苦手意識が人一倍強かったせいか美里はいじめられ続けられた。今になっても一対一では話せても3、4人が同じテーブルに着くと会話ができないという。

 小学校に入学して一週間も経たないうちに同級生たちは5つぐらいの仲良しグループに分かれたが、美里は案の定そのいずれにも入れてもらえなかった。だれも話しかけてくることもなく、自分から声をかける努力もしなかった。こうして、声を出すタイミングを完全に逃していったのである。

 初めての遠足は野毛山動物園であった。好きなもの同士でグループを作って下さいという先生の言葉に美里は「信号が赤に変わった横断歩道の真ん中に突っ立ているような恐怖を感じた」と言っている。そして、一人取り残されている惨めな顔を隠すために国語の教科書を開き、最初は無理してページをめくっていたが、まだ習っていない『ごんぎつね』を読むうちに気持ちが静まっていくのを感じたという。この時に美里は本を読めば現実の世界から逃避できるということを初めて知ったということが想像される。そして皮肉にもこの経験は、柳美里という作家を生み出したひとつの要素といえるであろう。本を読むことは現実逃避できるであろうが、その本を書くという行為はさらに現実から離れ、自分の世界に閉じこもることが可能であろう。誰の目も気にせずに、自分の好きなことを自分なりに表現してゆくのである。

 結局どのグループにも属さず先生たちと行動することになり、一緒に動物園をまわり、お弁当をたべた。

 この当時いじめにあっていたことについては柳美里自身冷静に考えている。「なぜかと言えば、それは理不尽なことではなく、原因があったからである生意気であったということと、自分は選ばれた人間だと思っていたことである。もの心ついた頃から自分と他人の間には深い溝があって、決して向こうがわには行けないと感じていた」というのである。自分が追放された人間だと思うより選ばれた人間だと信じたかったのだろう。きっと誰もがそう信じて生きていきたいと思う。私もそう考えたい。しかし、いじめられ続けているなかでそう考えられる彼女の精神には驚かされた。想像していたよりも柳美里は前向きな考えを持った人物であることを知った。

 夏休みになり、美里の家族達は〈八王子のサンチュン〉のところに泊まりに行くことになった。サンチュンは日本人の女性と結婚し帰化したためか、自分が韓国人であることがばれるのを極度に恐れ、栄姫という美里の母親のことを良子と呼んでいたそうだ。何日か目の夕食に食べなれた魚がでてきて「カルチ」と美里の兄春樹がいうと、「太刀魚といいなさい。」と声を荒くした。一週間近く泊まって帰宅するやいなや、家の中でサンチュンからの電話が鳴り響いた。美里たちが帰ってから近所の人の目がおかしく、外で韓国語を使ったのではないか、と問いつめたのである。

 美里はこの時はじめて、自分が韓国人であることを意識した。そして著書の中ではそのことについてこう言っている「自分には誰にも明かしてはいけない、暗い穴ぼこのようなものがあり、それは用心深く歩を進めなければいつか落ちてしまう「落とし穴」なのだと感じた」と。そしてそのことを裏付けるかのように「名前も見た目も日本人とは何ら変わりもしないが、友達を家に招いたこともなく、父親と母親のことをパパ、ママといって決して韓国語で呼ばなかったのは、無意識のうちにその「穴ぼこ」の存在に怯えていたせいである」と告白している。

 5年生になり、いじめられている美里をかばってくれた同級生と親しくなった。ある日、学校帰りにそのこと手をつないで歩いていると、路地からリアカーをひいたコモが現れた。上半身裸。手拭いで鉢巻きをしてリアカーをひくコモを目にした友人は「ヤダァー、こじき」と美里にささやいた。美里はそれが自分の叔母であるとは言えず、汗ばんだ手を振りほどき、「近道しよう」ときた道を戻って路地を曲がった。友人には表札を確かめられたらどうしょうとひやひやしながらも、わが家の3軒手前にある白い大きな家を指さしそれが自分の家であると言い張った。

 「自分が恥じているのが、<家>なのか、<家族>なのかその頃はよく分からなかったが、なぜ家は家族に似ていき家族は家そっくりになるのかという疑問を持った」と言う。確かに一人の人間を理解するとき、その人がどのように生きてきたかだけでなく、どのような家で育ったかを知ったほうがまず間違いない。自分の叔母であるコモと自分の本当の家を隠さなければならなかった彼女の悲しさ、そして悔しい思いはいったいどこにむければよかたのだろうか。コモは自分の家族であり、それを映し出す家族そっくりな家には自分も住んでいるというどうしようもない現実と非難、情、愛着という複雑な心の葛藤は測り知ることができない。

 小学校の卒業式の前日、美里の母親は家を出ていった。妻と母親をやめ、以前からつきあっていた男性のもとへいったのである。美里は女になった母親のなかで何かが確実に死んでしまったように思え、身震いが止まらなかったという。そしてこの日、同時に美里のなかの少女が死んだ。

 人の心の強さにも限界があり喪失はある日突然訪れる。人の心は何度でも死ぬが、その分何度でも生き返るとは限らないように思う。柳美里はこの日を境に生きながらも死んでいるような日々を送っているからである。

 それでも、卒業式に手に握りしめていた〈将来の夢〉がテーマの卒業文集には、〈私は小説家になる〉とかいてあった。そこには彼女の強い執念のようなものさえ感じてしまう。そして、心は死にながらも、誰よりも生きるということに執着していたのかも知れないと思うのだ。

 中学校はみんなと離れ、私立の横浜共立学園に入学した。古さでは日本で5指にはいる女子校であり、中高エスカレーター式で大学進学率100パーセントを誇る進学校だそうだ。入学するとすぐに48人のクラスメートは5、6人ずつの仲良しグループに早くも分かれたが、またしても美里はどこのグループにも属さなかった。集団になじめない単独行動型、過剰な自己防御、他者を極度に恐れるという本性はこのころから急激に顕になってきた。

 2年生になると、遅刻が常習化し寄り道をした。その場所と言えば、墓地であった。墓地を眺めることで、学校や家でささくれたった神経が鎮まり安らいでいくのを感じたという。そして、「自分は生きている人間たちよりも死んだ人間たちと親しく、彼らたちとしか打ち解けて話し合えなかった」と言っている。鞄の中に入っていた中原中也や太宰治の本たちは、生きている人間たちに傷つけられる柳美里をいつも癒し、励ましていたに違いない。

 そのころ毎日、自己嫌悪と後悔の念で目を醒まし、家や学校との縁を切って人生から降りてしまいたいと考えるようになり、二枚刃の剃刀を買い手首を切っている。彼女は自分の何を嫌悪し後悔しなければならなかったのだろうか。ばらばらになった家族のことも、自分がいじめられていることもどかかで客観的に見ていて、自分は選ばれた人間であると信じているようにしかとれない強気な彼女がすくいであると考えたかったのだが、心のどこかではみんなと仲良くしたい、話しかけてもらいたいと望んでいたがために自己嫌悪と後悔の念を抱いたのかも知れない。強気な彼女を期待するにはまだ早かっただろう。弱冠14歳当時の出来事である。少し安心してしまった。柳美里だって普通の感情を持った少女だったのである。いや、本当は誰よりも繊細な心を持つ少女だったからこそ他人でなく自分を責めたに違いない。

 15歳の時に美里は逗子の海に行き、誰もいない冬の浜辺で夜になるのを待ち海に吸い込まれるようにして沈んでいった。自殺を図ったのである。しかし、目を開くと夜は明けていて、美里は潮の香る息を吐きながら横たわっていた。波が彼女を跳ね返したのか、あるいは彼女が、呑み込もうと襲いかかってきた波から逃げたのか定かではないが、結局死ぬことはできなかった。

 その後、高校に進学したが、家出を繰り返して何度も補導され、1年生の時に強制的に自主退学のかたちを取らされた。

 学校を辞め、毎日が休日であり、そのころ別居していた母親と暮らしていたため、毎日顔を合わせる母親との諍いが絶えず、家を出たいという思いが切実になり、思いつきだけで劇団〈東京キッドブラサース〉のオーディションを受け、合格した。過酷なレッスンが美里を待ち受けていたが、彼女は自分でも驚くほど熱心にレッスンに打ち込み、急速に研究生たちと親しくなったという。

 演技の稽古というのは、1カ月ごとに〈泣き〉〈笑い〉〈怒り〉の訓練をし、日常生活で自分の内に隠し閉じこめている生の感情を非日常である劇空間で解放する、というのが目的であった。主宰者である東由多加氏は美里の洗いざらいの過去を聞いて、「あなたの家族のことも、これまでの出来事も人には知られたくないマイナスのことも、演劇をやることですべてがプラスにひっくり返るでしょう。それはあなたの才能であり、誇りにした方がいい。」という言葉を贈ってくれたという。

 文面を読む限り、〈東京キッドブラサース〉に入団してからの彼女には「死」と言う言葉は無縁だったように感じる。演じるということで今までの縛られた生活の中で隠してきた感情を解放していけたに違いない。この時、美里はいつも自殺することばかり考え、死んだように生きていた自分から少しづつ生き返っていたのだろう。

 それから、きっかけは今になっては思い出せないそうだが、何をテーマにするだとか、発表する、しないだとか小説か戯曲かだとか何も考えずにこのころ書くことを始めた。

 『家族の標本』(角川文庫)は『水辺のゆりかご』同様に柳美里自身の家族のエピソード、又はその他視界をよぎってゆくほかの人々の「家族」という像の断片を拾い集めて書いた作品である。憶測や感想や判断を極力おさている分丁寧に、できるだけそのままを留めたあらゆる家族の標本である。この2作品を読んで共通して感じることは、壮絶な家庭環境をこんなにも顕にできるのも、過去はどうあろうと柳美里が今の自分を造りあげた家族を憎むというよりは大切に思い、とても良い関係を保っているからに違いないということである。どんなに貶しあい、傷つく言葉を言い合い、争ったとしても、それが家族であればその傷はいつか必ず癒やされると思う。年月がたち、自らの家族をテーマに本を書くことになったのもその傷が癒された証ではないだろうかと思う。柳美里は今、幼い頃の家族との空間を埋めるように大切に大切に自分の家族の標本を作りあげようとしているのである。

 その他「家族」をテーマにしたフィクションの作品には泉鏡花文学賞・野間文芸新人賞を受賞した『フルハウス』(文藝春秋)、そして芥川賞を受賞した『家族シネマ』(講談社)がある。『家族シネマ』は離ればなれに暮らしていた家族が、自らの家族の情景を題材にした映画を撮るために集まるという物語であり、そこから生じる摩擦やすれ違いを通して、家族とは何かをといかける。この2作品は、フィクションではあるものの、物語のなかでの家族構成は柳美里の家族と類似する点がいくつかある。2つの作品で共通するのは「父親」を中心にした話の展開であり、妻に逃げられ、子供たちも離れていき崩壊してしまった家族を、新しい家を建てみんなで暮らすことで最初からやっていこうとする父親の姿を描いている『フルハウス』は登場人物の名前は違うものの、母親が妹に誘われてキャバレー勤めを始めるところや、父親がパチンコやで働いているところなど、登場する女性とその妹の経歴などはまさに柳美里とその妹愛里そのものである。また、柳美里の父親は、崩壊したとしか言えない家族を、家を建てることで再生できると本気で信じ実際に横浜に新しい家を建てた。しかし家族の誰もが父親と暮らすことを拒んだ。作品の中でも主人公とその妹は父親と暮らすことを拒んでおり、孤独で切ない父親像が描写されている。これは柳美里が自分自身の家族を名前や設定を少し変えることで、客観的に見つめているように思える。

 『家族シネマ』のなかでの父親像も柳美里の父親に他ならなく、自分の子供を可愛がったり、しかったり、一家の主として崩壊した家族を立て直そうとがんばる父親に対し、「父親」と言う役を演じているだけである、と指摘している。というのは、家族には、父親、母親、兄、姉、妹、弟、というようにそれぞれ役が与えられていて、みんながその役を演じているだけであるというのである。自分が父親や母親になったときには、自分の父親や母親を手本にしたり、まねしたりして自分の子供に接してゆく、これは「親」という役を演じているということに他ならなく、自分自身に父親がいなかった美里の父親は、父親とはこうあるべきだという自分自身の考えを基に作り上げた「父親」という役を演じていたにすぎないという。

 柳美里のこの考えが正しいとすれば、この全世界の家族は毎日それぞれ与えられた役を家族という劇団のなかで演じているのであろうか。確かに私たちは無意識のうちに、父親らしく、とか母親らしく、姉らしく、という言葉を使うことがある。それは、もともとある手本に向かって努力するというような響きを持っていて、事実私たちは日々「らしく」あろうと誰もが考えているように思う。だとすれば、私たちは生まれながらにして役を与えられた人間であるのだろうか。しかし、互いを大切に感じるからこそ「らしく」あろうと努力することができるのではないだろうか。演じているのは愛があるからこそであるということをつけ加えずにはいられない。しかし、このことに柳美里は気づいているに違いない。

 柳美里の父親が「父親」という役を演じているのだとしても、不満ならば役を降りることだってできるのだし、たとえ演じ続けるにしても多少なりとも人を愛することが必要であろう。その愛は確実に彼女に伝わっていたと思うのである。

 柳美里のかく作品はすべてと言っていいほど、彼女自身の家族がモデルになっている。すべての作品を通して言えることは、何が楽しかったとか、何が嬉しかったとか、家族へ対する直接的な感謝の言葉、気持ちなど「幸せ」を連想させるような言葉は何一つ出てこない。そして、その家族がどうすれば良くなるのかということにも触れていない。「暗い話を書き続ける作家」と言われても仕方ないと思うし、私たちが彼女を不幸な人間であると考えてしまっても仕方ないと思う。しかし、飾らない現実を書いた彼女の作品だからこそ、きれい事を書いたような人間愛のドラマよりも多くのことを考えさせてくれるような気がする。

 そもそも「幸せ」とは何なのか。自分のなかでの「幸せってこういうもの、こうあるべき」といつのまにか思いこんでいるものがすべての人にとって「幸せ」であるとは限らない。これまで幸せとされてきているるものを゛幸せ″と刷り込まれるのは当然のことであるかも知れないが、持って生まれた自身の感触を通して幸せを実感したい。ならば柳美里は幸せであったのか、幸せでなかったのかを他人がとやかく考えることは不可能である。しかしひとつ言えるとすれば、彼女の作品を読む限り、人を責めている節は一切なく、いつも自分をとりまく人間に、相手はどうあろうと柳美里は好意を持ち、人に愛されたいという願望と、家族に対する愛情を感じずにはいられなく、自分が不幸であると思われたいがために作品を書いているのではないということである。そして、私はむしろそんな彼女の純粋さを羨ましいとさえ思う。

 

 

 

3.その他の「死」をテーマにした戯曲と作品

 柳美里は劇団に入っていたときから自分自身も脚本を書いており『水の中の友へ』という処女作は実際に彼女が演出を手掛け、自ら結成した劇団「青春五月党」によって劇場で公演された。 物語は、死にたがっている男、あるいは既に死んでいる男と家出少女が浜辺で出逢って心中するというものである。

 1988年読売新聞の劇評「3月の新劇から」でこの作品はこう評されたという。『作・演出は同一人物で、19歳の在日韓国人女性。青春特有の苦悩を、水の鏡に映し出すとゆがんで見えるという意味を込めた作品である。主人公は在日韓国人二世の少年。己のアイデンティティーを求めることによって、他人までも傷つける。作者は豊富な言葉の持ち主で、整理された次回作に期待したい。何よりまじめな芝居づくりに好感を持った。』

 その後『石に泳ぐ魚』『静物画』『月の斑点』『春の消息』『向日葵の柩』とつぎつぎに作品を書き、発表している。そして8作目の『魚の祭り』で岸田國士劇曲賞を受賞。24歳、史上最年少であった。

 この戯曲の題材のまた「家族」である。離散した波山家が、弟の急死をきっかけに集まる。しかし久しぶりに顔を合わせる家族は死者を悼むよりも、感情のすれ違いが顕になる。長い時間の中にあぶりだされる、ねじれた愛情を精緻に描いた作品である。家族の一員が亡くなったという悲しみよりも、久ぶりに顔を合わせる家族のそれぞれの戸惑いが目立つ。

 弟の冬逢が亡くなったことを伝えるために自分の娘に電話をする母親は息子の死の悲しみに暮れるというよりも、久ぶりに話す娘への戸惑いが見られ、冬逢が亡くなったということはついでのことのように付け足している。それを知った娘も大して驚いた様子もみせずに母親の家に向かう。父親ともう一人の息子冬樹と母親とは12年もの間会っておらず、母親がどこに住んでいるのかさえも知らず、ほぼ他人のような感じでぎこちない。この家族は結局やり直すこともなく、冬逢の葬儀が終わるとまたそれぞれの場所へと帰ってゆく。

 この作品を読んで、面白かったとか、感動した、という人間はまずいないろう。興味や軽い動機で読むことを拒否するような戯曲であるようにさえ感じる。この作品は、まさに柳美里の、柳美里による、柳美里の為だけの個人の内的世界へ没入してゆくが故に、奇妙な空間の広がりを読み手側に感じさせてくる、そんな気がするのだ。  ゛戯曲″を書くということは、それが舞台で演じられ、観客に見られることを前提にしていると考えても間違いではないだろう。劇場に来る観客たちはお金を払ってその芝居を見に来る。観客としては、何かしらの感動や笑いを期待して観にくるはずである。脚本を書く側にしても観客の心をつかむために何かしらのクライマックスを用意するのではないだろうか。

 この『魚の祭り』が劇場にあげられ公演されたら、観客はどんな反応を示すであろう。自己中心的な陶酔の世界を観終え、唖然としてしまうのではないかと思う。自ら進んで他人の陶酔の世界に入り込もうとする人間はまずいないに等しく、表現とはそれが受ける側に受け入れられなければ意味がない。

 柳美里は一時期《東京キッドブラザース》で女優をしていたこともある。とすれば、女優として芝居を演じることと、きちんと客にみせるということのバランスについて感じ、考えたことがあるのではないだろうか。それでもこのような作品を事実、書き続けている。だとすれば、柳美里にとっての゛戯曲″とは一体何を意味するのだろう。私には分からない。劇場での芝居はある種のギブアンドテイクであると私は思う。お金を払って芝居を観に来る観客に対し、演出家と役者たちは涙と笑いを提供し、観客たちは彼らに拍手をプレゼントする。本来、芝居は観に来る人々にとって娯楽であるべきだと思う。しかし、柳美里は本当に観客が欲しいのだろうか。観客の拍手が欲しいのだろうか。おおよそ客観とはいいがたい、ごく個人的な内的世界をのぞき込む、最も主観的な作業のなかで、それでも柳美里は゛戯曲″として自分の作品を舞台にのせたかったのだろうか。

 3作目の作品である『静物画』(角川文庫)は、紙透魚子(しとうななこ)という女子高生の前に、5年前学校にある林檎の木に首をつって自殺した女の子の幽霊が現れ、幻想のなかで2人は遊ぶようになり、ある夜林檎の木に呼び寄せられるようにして池に落ちて死ぬ。林檎の木の下で微笑む少女はあくまで幻覚であり、彼女自身の何かが幻覚をみせたのであり、自殺であると言っても良いだろう。

 5作目の『春の消息』という芝居は、線路に飛び込んだ高校1年生の少女が、死ぬこともできず、生きる世界にも戻れないままプラットホームを永遠にさまようという話である。そして何10年か経って、彼女の友人達が老衰で死に、黄泉の国行きの電車に乗るためにその駅にやってくるのだが、彼女はそこでもまた同級生たちと別れなければならない。自分がなぜ死の国に行けないのか、自分が本当にかつて生きていたことがあるのだろうかと16年を振り返る。しかしそれが一瞬も見つからないために、死ぬことができないのである。

 考えてみれば、柳美里の書く戯曲はすべて「死」をテーマにしている。このことについて柳美里は最初から意図したわけではなく、何作か上演して、人から指摘されて初めて気がついたという。彼女の作品の大半が最後に自殺をするというストーリーになっているが、柳美里自身が現実のなかで自殺できなかったため、芝居のなかで主人公は飛び降りたり、手首を切ったりして自殺するのだろうか。しかし、不思議なことに自殺ではあるものの作品のなかでの主人公の死はなぜか、自殺に対するネガティブな印象をあまり感じさせない。なぜかというと、戯曲に登場する主人公は自殺するにあたっての明確な理由を持たないまま、まるで美しい場所へ旅立つかのように消えてゆくのである。

 『静物画』(角川文庫)での主人公、紙透魚子(しとうななこ)の自殺(死)も例外ではなく、彼女の死の場面は「林檎の樹の下で幽霊たちが魚子を見ながら懐かしく微笑んでいる。魚子、ほほえみながら林檎の樹の下に歩いていく。 どこか遠くで水の泡の音がするが、それもやがて途切れる。」と表現されている。「ほほえみながら」という言葉は死への喜びとも受けとれる。「水の音が途切れる」というのは魚子が池の中に入っていき沈んでいくということなのだが、私にはなぜかその死が美しい行為に映ってしまうのである。

 これは柳美里の「死」とくに「自殺」に対する価値観がそうさせているに違いない。

 その他自伝でもなく、戯曲でもない、いわゆる小説も柳美里は手掛けている。『タイル』(文藝春秋)また今年の文芸春秋11月号に掲載された『ゴールドラッシュ』もその部類である。これらの作品にもやはり「死」が存在する。しかし、他の作品と違うのはこの死が主人公による殺人であるということである。最も恐ろしいこのテーマも柳美里の手に掛かるとひと味印象の違うものになる。『タイル』の主人公の男は憧れの女流作家、夏海かおりを殺害し、その遺体をベニヤ板で囲ってコンクリートを流し込み、コンクリートが固まると板をはずしてそのあとタイルを貼る。男には夏美を殺す動機などなにもない。しかし彼女を殺害したあとの男は何かから解放されたかのような解放感にひたり、ゆっくりと眠りにおちる。

 人を憎んだり、恨んだり、ということがないせいかあまり殺人に対する生々しさは感じない。しかしそれだけに、理由なき殺人への疑問は募る。もしかしたら、自分の中の何かを殺すために女を殺したのではないかとも思う。そしてこれはある意味自殺なのではないかとも思う。 

 だとしたら、すべての作品に共通して、なぜ柳美里がそんなにも「自殺」にこだわるのか、そして「自殺」というテーマを作品に取り上げながらもどうして生々しくネガティブなものではなく読む者にカリスマ性さえも感じさせてしまうのか。柳美里の「死」そして、「自殺」にたいする価値観とその意味するものを探ってゆこうと思う。

 

 

 

 

4.柳美里の『自殺論』

 柳美里は戯曲をはじめとする多くの作品のなかで「自殺による死」にこだわっているのが分かるが、1993年に神奈川県のある高校では「自殺」をテーマに講演をしており、その時の講演をまとめたものが『柳美里の「自殺」』(河出書房新社)として出版されている。この本は私の「自殺」に対する考えを変えた作品でもある。

 前の戯曲の時に触れたが、『春の消息』という作品のなかで、主人公である高校1年生の少女は自殺を図るが死ぬことができなかった。自分の過去を振り返っても本当に生きていたという一瞬が見つからなかったというのが理由なのだが、これは柳美里が「生きていたことができなかった人に死ぬことはできない。」と考えているためである。

 寺山修司という劇作家が「ぼくは不完全な死体として生まれてきた。」というふうに書いているのを受け、柳美里は自殺に失敗をした14歳の時から「不完全な生を生きている。」と強く実感しているという。

 また、フランスのシュールレアリストのジャック・リゴーという人物が、20歳の時に自分に死刑判決を下して、それから10年後の30歳の時に自分で死化粧をしてピストル自殺をしたときに、彼の一番親しい友人、アンドレ・ブルトンが彼の死を知って、「人生の最も美しい贈り物は、好きなときにそこから抜け出させてくれる自由だ。」といったことに柳美里は深い共感を示している。

 「自殺は人間だけが行う行為であり、蟻も猿もライオンも自殺することはない。だからこそ、自殺は最も人間的な行為であり、人間だけに与えられた特権である」というのが柳美里の自殺に対する根本的な考え方であるからだ。

 人間が自殺する理由としては例えば、友人やまわりからのいじめ、失恋、事業の失敗などがあげられる。しかしこれらの死がすべて絶望から来るものかといえば、そうとも言い切れないと思う。いじめにあった人が自殺をするのは苦しみから逃れるためでもあるが、それと同時にそのいじめた人間に対して死を持って抗議するという意味も含まれると思うし、好きな芸能人の死をおって自殺した人の場合は、「私は、これほど、自殺するほどあの人のファンなんだ。」と強く宣言しているのである。つまり、自殺をするということは必ずしもネガティブな行為ではなく、積極的に自己を表現する為の行為であるということも可能である。

 『柳美里の「自殺」』の中で柳美里は過去の著名人やマラソン選手たちの自殺をいくつか取り上げている。はたから見れば成功していた人間たちの自殺は私たちに何を語りかけているのだろうか。いくつかその死に至るまでの経緯をたどっていこうと思う。

 まずは、「不完全な死体として生まれてきた。」といった寺山修司の死について考えようと思う。彼は、若い頃に2年間闘病生活を送り、その後も度々入退院を繰り返していた。死ぬまでの数年間は医者に「演劇や映画をこれ以上続けたら、あなたは間違いなく死ぬ」と言われていたそうである。それでも彼は、演劇も映画もやめなかった。彼は病気で亡くなったのだが、医者に宣告されてもなお仕事を持続したという意味で、柳美里は彼の死を文学的な自殺と捉えている。それは生きることよりも仕事を優先したからである。

 死後数年して、さらに高い評価を受けて、今まさにブームと言ってもいいほどたくさんの書物が出版され、多くの若い読者を獲得しているが、もしも、彼が生きるために、医者の忠告を聞き入れ演劇や映画をやめていたらどうなったのであろう。寺山修司は、俳句、短歌、ラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇と、とても広い範囲にわたって活躍していた人物であり、「私の職業は寺山修司です」と自ら言っていたという。だからもしも彼が仕事を辞めてしまったら「寺山修司」ではなくなってしまったのだろう。仮に生きることができたとしても、自分が自分でなくなるとしたら、それは死よりも過酷で空虚な生を引き受けることになるのであろう。寺山修司は寺山修司でありつづけようとして死を選んだと考えることができる。

 そのような彼の純粋な生き方に多くの人々が惚れこんだのかもしれない。

 人間はただ生きるだけでは満ち足ることはできないのか。自分が存在することの意味を確かめるために、人は自分の体が失われても、自分の自我を守ろうとすることがあるように思う。

 他人を助けて自分が犠牲になるという英雄的な行為も自殺の一種であり、援助を求めている人間がいたら、たとえ身の危険があろうとも、見捨てることはできない、という自我を持っている人は、もし見捨てたら自分が自分でなくなるという恐ろしい自我の崩壊に直面せざるをえない。

 自我の崩壊は生きてゆく中で何度も直面することであると思う、しかし自我が崩壊したからと死を選ぶ人間はそれほど多くないように思う。やはり自分の命の崩壊のほうが恐ろしいからだ。ただし、自我よりも命を選んだ場合の代償として私たちは生きてゆく中で自我の崩壊を一生悔やみ続けるのかも

知れない。

 それは自分という存在の死よりももっと恐ろしいことであり得るのだろう。

 円谷幸吉は、東京オリンピックで倒れ込みながらも銅メダルを獲得して、日本中を熱狂させた長距離ランナーであったという。しかし、円谷選手がもっと世間を驚かしたのは、昭和43年にカミソリで首の頚動脈を切って自殺したということである。特にその遺書は人々に衝撃を与えたというのだが、私もはじめてこの人の存在と遺書を読んでみてとても衝撃を受けた。その最初と最後の部分を柳美里の著書から抜粋したいと思う。

 《父上様、母上様、三日とろろお美味しゅうございました。干し柿、もちも美味しゅうございました。敏男兄、姉上様、お寿司お美味しゅうございました。―幸造兄、姉上様、往復車に便乗させていただき有り難うございました。―父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が安まることもなく、ご苦労、ご心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。》

 この遺書は、遺書というには異様である。「美味しゅうございました」のリフレインには文章としての美しささえ感じる。そのため世間に衝撃を与えたのであろう。まさに美しい詩のような遺書である。

 自殺の原因の一つには4年後にメキシコオリンピックを控えており、周り人々の期待が重圧となって自殺をしたのだという説が一般的に流布したようである。しかし彼には婚約者がいて結婚を考えていたのだが、メキシコオリンピック迄はというふうに周りの人に反対され、そのことに絶望して自殺をしたということが、沢木耕太郎という人が書いた『破れざる者たち』というノンフィクションで死後明らかになったという。

 彼の遺書には周りの人に対するあふれんばかりの愛情が込められている。

 ただ、この遺書を読み私が想像するのは、走ることから逃げ、周囲の人間にまどわされていた弱い人間像である。しかし柳美里は、私とは全く反対の考えをしている。「彼ほど、人間が人間であることにこれほどまでに誠実な人間はいなく、誠実であろうとしたときに死を選ぶしかない人間の哀しみが円谷選手の死にあらわれている。」と言っているのである。

 最後に太宰治を取りあげている。太宰は、昭和23年6月13日に、愛人であった女性と玉川上水に入水した。きちんと整理された彼の部屋には2人の写真が並べてあり、写真の前には茶碗に入れた水と線香が供えられ、妻にあてられた遺書の傍らには子供たちへのおもちゃがひっそりと置かれていたそうである。 

 生前太宰はこんな言葉を残していたそうである。《人間は、飯を食べなければ死ぬから、そのために働いて、飯を食べなければならぬと言う言葉ほど自分にとって難解で晦渋でそうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は無かったのです。》

 日常というのは、ある種の人間にとっては凶器のように自分を脅迫するものであり得ることが解る。日常的な世界にどっぷりとつかっている人間から見れば、その日常への恐怖というのは理解できない。それは私たちが日常に慣れてしまって、鈍く、無神経な人間になってしまったからなのかもしれない。

 「日常に非情さに我慢できなくて自殺を選んだのだとすれば、私たちを代表して死んでいった殉教者だと思う。」、と柳美里は彼の死を評価している。

 以上3人の自殺について引用したが、自殺した理由は個々異なる。生きることだけでは満足できなかった寺山修司、誠実であろうとして死を選んだ円谷幸吉、日常のしがらみに絶えきれずに死を選んだ太宰治。彼らは命を絶っても自我を守ろうとした最も純粋な人間だったのかもしれない。「自殺」=「逃げること」と考えていた私にとってそれは考えもしないことであった。だからといって、私は誠実であるために死ぬことはできないし、日常のしがらみに耐えられないからといって死ぬこともできない。自ら命を絶ってまでも守るべき自我を持っていないからだろうか。

 講演の中で、柳美里は高校生に向かって「自殺を人生の中にプログラムすべきである。」と提案をしている。というのは人は必ず死ぬのだから、例えば殺人の犠牲になって死ぬよりも、無惨な事故死よりも、病気になって薬漬けにされて死ぬよりも、自殺のほうがはるかに美しい死にかたであるということを意味している。「みじめな生を生きるより、死の向こう側にある物語に身を任せて、自己を完結させるほうがよい。」これが柳美里の主張である。

 確かに現代の人々は、死ぬことを嫌っていることがわかる。病気になれば莫大な医療費をかけ、健康な人でさえも健康食品やビタミンやカルシウムの錠剤へ執着し、健康のためにと運動をする。どうにかして自分の生命を維持することに必死で、遅かれ早かれ必ず死ぬということの恐怖から逃げようとしている。そんなにしてまでも守るべきことがあるのかというとそうでもないと思う。死という終わりを意味する世界への恐怖がそうさせるのだろう。

 発明王として有名なエジソンは、最期に「向こうはとても美しい」と言い残して死んだという。柳美里は彼の言葉をすべて信じているわけではないが、20代のうちに自殺をしたいという願望を捨て去ることができないという。

 そして、驚くべき事に柳美里は自分の中に自殺をプログラムして書きたいことを書いたら、自殺するつもりであるとみんなの前で告白している。

 これは、彼女が生に対する執着をすごく強く持っている人であるということを示している。というのは、「生きたい」と「死にたい」というのは柳美里にとってイコールでありもっと生きたいから、だらだら生きるのがいやだから、自殺をするときめてそれまでできる限る精いっぱい生きようじゃないか、と考えているわけである。 

 柳美里にとって、問題は死ぬことよりも、死んだように生きることである。もしも、私たちに寿命というものがなく、永遠に生きられるとしたら、だらだらと続く退屈な日々に自殺を望む人はものすごく増えるのかもしれない。

「死」がなければ「生」も存在しないのだ。 「死」があっても、柳美里のように、いつ訪れるかわからない死を待ちきれずに自ら向かってゆこうとする人も多い世の中である。

 何年か前に、当時絶大な人気を誇っていたアイドルが自殺をしたとき、30人もの若者が後を追うようにして自殺したそうである。私は、自殺した彼らにははそれぞれ動機があって、彼女が自殺をしたことで、自らの自殺の引き金になったのではないかと思う。このことは自殺を心の中に秘めている人間は、想像するよりもはるかに多く、みんな死ぬ動機を持っていて、死ぬために引き金を引かれるのを待っているのではないかと思う。

 「緩やかな自殺」というのも存在する。お酒を飲むことも、タバコを吸うことも体に良くないということはみんなが知っていることである。お酒もタバコもやらない人からすれば、体に悪いと知っていながらもやめようとしないことは、自らの死を早めていることに他ならない。しかしそのような言葉を言われてもやめる人間はいないと思う健康のため、長く生きるために自分のやりたいことを我慢するほうがもっと後悔してしまうからだと思う。人間には必ず死があって、私たちは毎日毎日間違いなく死に向かって進んでいる。

 それが早かろうが、遅かろうが死ぬということは確かであり、死が待っているからこそ今生きているという充実感や満足感を得たいと考えながら生きているように思う。多くの人は、自分の死を考えていきているのである。

 死にたいと思っている人がたくさん存在するのも事実だが、ほとんどの人が自殺を考えなくても自分の死を意識して生きているのも事実である。死があるからこそ私たちはよりよい生を求めるのだ。死は生のすぐとなりに存在するのかも知れない。

 柳美里が講演の中で高校生に向かって「自分の人生の中に自殺をプログラミングすべきである。」と言っていたが、それは、ただ漠然と生きるのではなく、それぞれの人生の中に自殺をプログラムすることで、生の活性化にすべきであり、死があるから生があるということ認識すべきであるということをいわんとしていたのであろう。

 柳美里にとって、「死」は「生」と隣り合うものであり、「自殺」をするということは自我を守るものであり、積極的に自己を表現するものであり、決して逃げることではない一つの選択肢でありうる。そういった彼女の死に対する価値観が、作品の中での自殺や、死をネガティブなものに感じさせなく、不思議な魅力を感じさせてしまうのかも知れない。

 病死や事故死というような、自己の責任というか、自己のための死ではなく、ある日突然、理由もなく死ぬということほど悔しいことはない。

 そのような人々が多く存在する中で、自殺を肯定すること、死を語ることなんてと批判されてしまうかもしれないが、だからこそいつも死を考えて生を生き、等身大の死があることを期待せずにはいられない、柳美里はこう考えているのだ。

 

 

 

 

5・柳美里の魅力

私たちは、「孤独」や「死」ということをとても恐れて生きているように思う。「孤独」という言葉には冷たく暗い響きがあり、自分は一人であると思い、孤独であると気づいた途端に、まるで病気になってしまったかのように考えてしまう。「死」という言葉には終わりを告げる意味を感じ、一人で死んでいくことに不安と恐怖を感じる。だから、自分はそれらのものと無縁でいたいと願う。それはおそらく誰もが考えることである。

 しかし「孤独」こそが、美しさ、強さを生み出すものであるということを柳美里に学んだような気がする。音楽も絵画も映画、芝居、小説も孤独を見つめることから生まれる。そして、自分が孤独だというときにこそ、音楽を聴きたい、絵や映画や芝居を観たい、小説を読みたいと思うのではないだろうか。 孤独でなければ真実は見えてこないし、孤独な時こそ自分の強さやはかなさに気づく。何が自分をこんなに寂しがらせるのか、孤独の原因を突き止めてこそ、自分を支えてくれる友達や家族の大切さに気づくのである。

 幼い頃から、いじめを受け続け、バラバラになった家族の中で、自分が1人であることを感じたという柳美里だが、もしも孤独を感じずに自分をみつめることがなかったら、いまこうしてベストセラー作家として、人々に孤独や死の大切さを語ることはできなかったのではないだろうか。

 彼女の家庭環境もこれまでの人生も作品を読む限りとても壮絶なものであった事がわかる。しかし、もしも柳美里がこれまでの辛かったことをただ不幸を自慢するかのように書いてるとしか思えない作品を書く作家であったら、たぶん誰も彼女の作品を読もうとはしないのではないかと思う。人の不幸話に同情するためにわざわざ時間とお金をかけようとは思わないからである。

 柳美里は、小学校の卒業式の前の日に、母親が子供たちを捨てて家を出ていった時から、生きながら死んでいたというが、卒業式の日、手に握りしめていた卒業文集には「私は小説家になる」とかいており、その夢は今まさに大成されている。そこには長い間孤独と向き合い続けた彼女の辛い日々と、自分を見つめて苦闘した日々が想像されるが、何よりも、彼女の生きることに対する執着心と精神の強さを感じるを感じる。

 「暗い話を書き続ける作家」と言う形容が世間に根付いているが、私自身彼女の家族について書いたエッセイをはじめて読んだとき、それは<家族には役があって演じているだけである>というような事を書いたものだったのだが、そのときはすべてに納得がいかずに、どうしてこの人はこんなにすべてをマイナスに考えてゆくのだろうか、と不愉快に感じた。その後、彼女を批判するつもりで作品を読んでいったのだが、読めば読むほど、どうして多くの若者たちが柳美里の本を読み、魅了されるのかが理解できるようになった。柳美里という人は、人生のすべてを、マイナスでなく、プラスにしてゆく人物であった。

 在日韓国人というコンプレックス、複雑な家庭環境、幼い頃からのいじめ自殺未遂、これらのマイナスと考えてしまうことも、柳美里にとっては今の柳美里をつくりあげた大切なプラスなものであった。

 彼女は周りの人々よりも、自分を見つめ、考える時間をたくさん与えられた人間なのだ。その与えられた長い時間の中で、自分は何者で、どこから来て、どこへゆくのか、柳美里は発見した。そして彼女によって書き上げられた数多くの作品は、私たち読者に、孤独や死を考えて生きてゆくことの大切さ、そうすることによって自分自身を見つめ、自分が自分らしく生きること、他人と同じでなくてもいいのだということを教えてくれるのかもしれない。

 現代の若者達は柳美里の作品を読むことで、自分自身を見つめ自分らしく生きていきたいという事を感じるのだろう。彼女の作品がベストセラーとなる背景には、時代や周りの人々に流されながら自分自身に絶望を感じている人々が数多く存在することが分かる。それらの人々には、自分らしく生きている柳美里が幸せな人間に思えて仕方がなく、彼女の作品は、強烈な光をもって人々をとりこにするのである。

 

 

 

おわりに 

 最近では本格的な映画文化の交流の第一歩を目指し、柳美里の『家族シネマ』が映画化した。韓国のプロダクションの製作で、スタッフは韓国人、出演者は在日韓国人と日本人で、台詞は日本語。主人公には柳美里の妹である柳愛里が抜てきされた。問題は公開であり、韓国では日本語の台詞が一定量を越す映画の上映は認められていないという。国内でも配給会社と交渉中ということで具体的なめどは立っていないというが、一日でも早く公開されることで、『家族』という国境を越えたテーマについてより多くの人に考えてもらいたいと思う。

 

 


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